はじめに(この記事で分かること)#

VPNでIPアドレスを隠しても、ブラウザが持つ指紋が残れば、サイトは「同じブラウザが戻ってきた」ことを検知できる。この指紋は、cookieを使わずに追跡する手法である。EFFが2010年に公開した研究(当時の名称はPanopticlick、2020年にCover Your Tracksへ改称)では、指紋の分布に少なくとも18.1ビットのエントロピーがあった。

この記事では、フィンガープリントの信号とエントロピー、Tor Browser/Mullvad Browserの「全員同一」戦略とBraveの「ランダム化」戦略の違い、そしてMullvad Browserの正しい使い方を整理する。

前提: 脅威モデルの整理#

ブラウザフィンガープリントが有効な相手は、脅威モデル入門で整理した5種類の相手のうち、主に2者だ。

広告網・データブローカーは、IPアドレスをVPNで変えても、フィンガープリントが同じなら同じ人を追い続ける。プラットフォームは、ログインしていない状態の再訪者をフィンガープリントで識別できる。

フィンガープリントの信号とエントロピー#

ブラウザが外に向けて発信する信号は、JavaScriptで読み取れる情報の集合だ。各信号が持つエントロピー(情報量)を合計すると、個人を識別できるほどの量になる。

信号読み取れるもの推定エントロピー
CanvasハッシュGPU・ドライバ・フォントレンダリングの差分~8-10ビット
WebGLレンダラー文字列GPU型番がそのまま露出~7ビット
AudioContext浮動小数点演算の誤差からハードウェア固有の差分~4-6ビット
フォント列挙インストール済みフォントの集合~6-8ビット
画面解像度ディスプレイの物理サイズとDPI~4-5ビット
タイムゾーンシステム設定のタイムゾーン~3-4ビット
言語・ロケールブラウザの言語設定~2-3ビット

EFFの2010年の研究(Panopticlick)では、指紋の分布に少なくとも18.1ビットのエントロピーがあり、標本の83.6%のブラウザが一意の指紋を持っていた。ただしこれは、FlashやJavaが広く使われていた時代に、EFFのサイトを訪れたプライバシー意識の高い利用者を標本にした値である。AmIUniqueの研究(Laperdrixほか、2016年)では、118,934件の指紋のうち89.4%が一意だった。どちらも当時の標本の値で、現在のブラウザにそのまま当てはまるわけではない。

この結果が意味するのは、cookieを消しても、IPをVPNで隠しても、フィンガープリントが残ればサイトは再訪者を識別できるということだ。

2026年の変化#

User-Agent文字列だけでは無力化されつつある。ChromeとFirefoxはClient HintsとUA削減を進めており、UAの情報量は減っている。

一方で、JA3/JA4などTLS層のフィンガープリントは、JavaScriptから書き換え不可能で、検出側に強い。LLM時代には挙動プロファイル(マウスの動き、タイピングリズム)まで識別に使われ始めている。

「全員同一」戦略と「ランダム化」戦略#

フィンガープリント対策には、対照的な2つの戦略がある。

標準化(Tor Browser/Mullvad Browserの戦略)#

すべてのユーザーが同一のUA、同一のフォント集合、同一のCanvas結果、同一のタイムゾーン(UTC)、同一の画面サイズ(letterboxing)を提示する。個々のユーザーを識別する情報を消すのではなく、全員を同一の値に丸める。

この戦略の強みは、1人だけのフィンガープリントが存在しないことだ。弱点は、1人だけ設定を変えると逆にその人だけがユニークになることだ。

ランダム化(Braveの戦略)#

Canvasの結果をページごとにランダム化し、フィンガープリントを不安定にする。サイト側は「同じブラウザ」を特定できなくなる。

この戦略の強みは、Chromiumの互換性を保ちながら抵抗性を提供することだ。弱点は、Tor Browser/Mullvad Browserと同じレベルではないことだ。

統一戦略の反直観的ポイント#

何も設定をいじらないことが最強であるという点は、直観に反する。拡張機能を追加し、設定を変更し、フォントをインストールするたびに、フィンガープリントは他のユーザーと異なるものになる。統一戦略では、「デフォルトのまま使う」ことが防御であり、「カスタマイズ」が攻撃面になる。

Mullvad Browserの正しい使い方#

Mullvad Browserは、Tor BrowserからTorネットワークを剥がしたものだ。Tor ProjectとMullvadの共同開発であり、Tor Browserと同一のRFP(resistFingerprinting)機能群を持つ。

Mullvad Browserを正しく使うためのルールは三つある。

ルール1: VPNとセットで使う#

Mullvad BrowserはIPアドレスを隠さない。VPNがIPを隠し、ブラウザがフィンガープリントを標準化する、という二層構造が正しい理解だ。

ルール2: 拡張機能を追加しない#

uBlock OriginとNoScriptは既に組み込み済みで、これ以上足すべきものはない。追加の拡張機能は、自分だけのフィンガープリントを作る。

ルール3: Tor Browserと混ぜない#

Mullvad BrowserのフィンガープリントはTor Browserとは異なる。Mullvad BrowserをTorで使うと、Mullvad Browserフィンガープリントの少数派になり、逆に識別しやすくなる。

他のブラウザとの比較#

ブラウザ戦略フィンガープリント耐性備考
Tor Browser標準化最強Torネットワーク必須
Mullvad Browser標準化Tor Browserと同等VPNとセット、デスクトップのみ
Braveランダム化中〜高Chromium互換、日常ブラウザとして許容
LibreWolfハードニング中〜低設定の個別性が逆効果になりがち
Firefox標準なし低RFP手動有効化は可能だが初心者にはMullvad Browser一択
Chromeなし低

モバイルについては、Mullvad Browserはデスクトップ専用だ。モバイルはBrave(iOSはWKWebView制約あり)+ VPNが現実解になる。Tor BrowserのAndroid版は存在する。

自己確認のテストサイト#

フィンガープリントの露程度合いは、以下のテストサイトで確認できる。

限界と残るリスク#

フィンガープリントの標準化は、Tor BrowserとMullvad Browserのユーザー集団の中でのみ機能する。ユーザー数が少ないほど、個々の設定の差異が相対的に目立つ。

統一戦略であっても、ハードウェアの差分(GPU、フォントレンダリング)を完全に消すことはできない。Mullvad BrowserはCanvasの読み出しをブロックまたはランダム化するが、完全な遮断ではない。

TLS層のフィンガープリント(JA3/JA4)は、JavaScriptから書き換え不可能である。この点は、ブラウザの設定では防げない。

まとめ#

VPNでIPを隠しても、ブラウザの指紋が残れば追跡は続く。フィンガープリント対策は、VPNと並行して行うべき二層目の防御だ。

Tor BrowserとMullvad Browserが採用する「全員同一」戦略は、「何も設定をいじらない」ことを要求する。拡張機能を追加し、設定を変更するたびに、自分だけのフィンガープリントが生まれる。

Mullvad BrowserをVPNとセットで使い、何も設定をいじらず、Torと混ぜない。この3つのルールに従うことが、フィンガープリント対策の最も現実的な出発点になる。

出典#