事例の概要#
2017年7月、オランダ警察は闇市場Hansa Marketを2か月間秘密裏に運営した。ドイツとオランダの捜査機関が市場のサーバーを掌握し、通常どおり取引を続けさせながら、利用者のデータを記録していた。
Hansaの閉鎖後、利用者の多くは別の闇市場Dream Marketに移った。オランダ警察は、Hansaで取得したアカウント情報をDream Marketのログインに試した。同じユーザー名とパスワードを使い回した販売者のアカウントが、警察の手に落ちた。
タイムライン#
| 時期 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 2017年6月20日 | オランダ警察とドイツ警察がHansa Marketのサーバーを押収。市場は閉鎖されず、警察の管理下で運営が継続 | BleepingComputer |
| 2017年6月〜7月 | 警察はHansaの利用者データを記録し、他市場への移動を監視 | 同上 |
| 2017年7月 | Hansa閉鎖が公表される。利用者がDream Market等に移動 | 同上 |
| 2017年7月下旬 | オランダ警察がDream MarketでHansaと同じユーザー名+パスワードの販売者アカウントを乗っ取り、PGP鍵を警察の鍵に差し替え | BleepingComputer |
| 2017年7月25日 | 14の販売者アカウントでPGP鍵が差し替えられたことが確認される | 同上 |
特定はどうやって進んだか#
パスワードの再利用#
Hansaが警察に掌握されていた2か月間、警察は利用者のログイン情報を記録していた。Hansaの閉鎖後、多くの利用者はDream Marketに新しいアカウントを作った。警察は、Hansaで記録したユーザー名とパスワードをDream Marketのログインフォームに入力した。
BleepingComputerによれば、パスワードを使い回し、かつDream Marketで二要素認証を設定していなかった販売者のアカウントが乗っ取られた。警察はパスワードを変更し、販売者を自分の店舗から締め出した。
PGP鍵の差し替え#
乗っ取ったアカウントで、警察は販売者のプロフィールに登録されていたPGP公開鍵を警察自身の鍵に差し替えた。これにより、その販売者とメッセージをやり取りしようとした購入者は、警察が用意した鍵で暗号化されたメッセージを送ることになる。警察は、そのメッセージを復号して読んだ。
PGP鍵の差し替えは、単一のアカウントの乗っ取りを超える影響を持つ。PGP鍵は、闇市場の販売者が「この鍵で暗号化されたメッセージは本物の販売者から来た」という信頼の根拠として使っている。鍵が差し替えられれば、その信頼の連鎖全体が警察の手に移る。
IcyDicyの事例#
2022年に逮捕されたメスの販売者「IcyDicy」の場合、r/onionsの分析によれば、複数の失敗が重なっていた。
まず、販売者は自分が発送した荷物の追跡番号を、自宅のIPアドレスから確認していた。追跡番号を確認するために配送業者のウェブサイトにアクセスした記録が、ISPのログに残っていた。
次に、複数の闇市場で似たメールアドレスを使い回し、PGP鍵も共用していた。ある市場で鍵が特定されれば、他の市場のアカウントも同じ人物のものだと紐付く。
さらに、荷物の配達時に撮影されたカメラ映像が証拠として使われた。
USENIXの定量データ#
個別の事例は、捕まった人の記録でしかない。この偏りを補うデータが、デルフト工科大学の研究者によるUSENIX Security 2021の論文だ。
論文は、オランダ警察が押収したHansa Market(2015〜2017年)のサーバーデータを用い、販売者1,733人のセキュリティ慣行を分析した。結果として、弱いパスワード、パスワードの使い回し、二要素認証の未使用、PGP鍵の使い回しが、すべての販売者タイプに広くみられた。
予想に反して、盗んだカード情報やマルウェアなどデジタル商品を売る販売者のほうが、薬物を売る販売者より慣行が悪かった。著者らは、デジタル商品の販売者が自分のリスクを低く見積もっていた可能性を挙げている。
逮捕されれば長い刑期が待つ立場の人々でも、平均的なセキュリティ慣行はこの水準だった。
どうすれば防げたか#
| 失敗点 | 起きたこと | 防げたはずの対策 |
|---|---|---|
| パスワードの再利用 | HansaとDreamで同じパスワードを使い、両方のアカウントが同じ鍵で開いた | サービスごとに異なるパスワードを生成する。パスワードマネージャーを使う |
| 二要素認証の未設定 | Dream Marketで2FAを設定していなかったため、パスワードだけでアカウントが乗っ取られた | 2FAを有効にする。Hansaの販売者のうち2FAを設定していた者は乗っ取りを免れた |
| PGP鍵の再利用 | 複数の市場で同じPGP鍵を使い、名義の連結と信頼の移植を同時に許した | 市場ごとに新しいPGP鍵ペアを生成する。鍵の使い回しは、評判の移植と引き換えに匿名性を失う |
| 自宅IPからの追跡番号確認 | 配送業者のサイトに自宅のIPからアクセスした | Tor BrowserまたはVPN経由で配送状況を確認する。または、自分で発送した荷物の追跡をそもそも行わない |
脅威モデル別の教訓#
匿名のアカウントを持っている一般の利用者にとって、この事例の核心は「再利用」にある。同じパスワード、同じPGP鍵、同じメールアドレスを複数のサービスで使い回すことは、一つのサービスが侵害されたとき、他のすべてのアカウントが連鎖的に露見することを意味する。
Dream Marketの乗っ取りは、パスワードを使い回し、かつ二要素認証を設定していなかった販売者にだけ通用した。同じ手口は、どちらか一方を守っていた販売者には効かなかった。この差は、攻撃の手法ではなく、攻撃された側の設定の差で生まれた。
一般のウェブサービスでも構造は同じだ。漏えいしたパスワードを大量のアカウントに試す「パスワードリスト型攻撃」は、再利用しているアカウントだけを支配する。二要素認証を有効にするだけで、この種の攻撃で狙われやすい集団から抜けられる。
出典#
- BleepingComputer — Crooks Reused Passwords on the Dark Web, so Dutch Police Hijacked Their Accounts(2017-07-27。オランダ警察によるDream Marketアカウントの乗っ取り、14アカウントのPGP鍵差し替え、鍵の指紋)
- van de Laarschot & van Wegberg, Risky Business? Investigating the Security Practices of Vendors on an Online Anonymous Market using Ground-Truth Data(USENIX Security 2021。Hansa Market販売者1,733人のセキュリティ慣行の定量分析)
- r/onions — OpSec Mistakes Lead to the Arrest of Meth Vendor "IcyDicy"(2022-01。追跡番号確認・PGP鍵再利用・配達カメラの分析。※コミュニティの分析であり、一次資料ではない)